「凪の代償」

アークナイツ統合戦略#3の6層表エンディング「凪の代償」の碑群。

 

 

▼再会
時の流れは、人々から海への恐怖を消し去ってしまった。シーボーンが去るにつれ、エーギルは再び傲慢で排他的になっていき、陸の国々も疑惑と対立の中へと戻って行った。この大地に存在する脅威はシーボーンだけではなく、人々はこれまで同様源石や天災、そしてそのほか多くの未知の苦難に立ち向かわねばならないのだ。
ロドスはというと、相変わらず大地の上を駆け回っては、鉱石病抑制用の薬剤を開発するかたわら、人類の共存共栄の可能性を模索し続けている。
ロドスの責任者として、ドクターの肩にのしかかる負担は並大抵のものではない。
それでも、毎年とある日がくると、ドクターは車に乗ってロドスを離れ、チューリップの護送の下でイベリア国内へと向かう。それから海岸を訪れて、浜辺に一人立ち尽くし、翌朝太陽がが再び昇ってきた頃に、ようやくその場をあとにして……また、息つく間もない仕事の日々へと身を投じるのだ。
夜の帳が降りてくると、海に紺碧の光が点々と浮かび上がる。
ドクターが波を踏みしめそこを歩くと、砂浜にはきらきらと光る足跡が残った。
ある人たちから見れば、ドクターはただ貴重な時間を浪費しているにすぎないのかもしれない。
本来なら、その一日を使っていつものように外勤オペレーターを率いて難題を解決することも、各地の事務所に力を貸して、複雑な問題を処理することもできたはず、なのかもしれない。
今のように、ただ浜辺の上から景色を眺めたり、歩き回ったりすることに丸一日費やす必要はないと考える人もいるだろう。
だが、ドクターの中では、こうした単純にすら見える行動にはある種の儀式性があり、メンタル面の調整のために必要なことだった。
多くの人は、ドクターのことを全知全能の「神様」だとか、あるいは機械と肩を並べるような超人だと思っているが、それは誤りである。
ドクターも結局はただの人間だ。普通ではないかもしれないが、人であることに変わりはない。
ゆえに誰にも打ち明けられない多くの悩みや悲しみを抱えている。
この大地には、そうした感情を受け入れることなどできないが、海にならそれができるのだ。
何を打ち明けたところで、海は答えてくれる。
ぱしゃっ、ぱしゃっ……
海はいつからこんなにも温かくなったのだろう? ──言葉にするのがはばかられるそんな問いを、ドクターは心中に抱えていた。
潮汐を鎮めたのはたった一人のオペレーターであり……彼は、二度と帰っては来なかった。
唯一残された形見は、こうして年に一度やってくる、紺碧の光を伴う潮流だけだ。
だからこそ、ドクターは毎年ここへ足を運んでいる。
一人瞑想して、悩みを、悲しみを打ち明ける。
人間の思いがこもったその言葉と、絶え間なく響く自然の音……
それらはいずれも意義がある。
行きては帰り、問うては答え……
そうした行動を通して、心の底にわずかばかりの慰めが生まれるのだ。
それで心に空いた穴が塞がることはないが、その慰めを求めて、人はこうした行為に多くの時間を費やす。
ミヅキにも聞こえているだろうか?
いや、ミヅキならきっと聞いてくれているだろう。
ドクターは固くそう信じ、望んでいた。
……
そうして、ドクターが砂浜を横切った時、波がそのくるぶしを浸した。海水はドクターの靴にそっと引っかかり、かと思えば次の潮と共に引いていく。
濡れたその靴に浮かび上がった紺碧の光は──
きらきらと輝いていた。

 

▼追憶
イシャームラは失敗した。
「それ」は大群の判決を冷静に受け入れたものの、戦うためだけに生まれた自分が、どうして生きる屍も同然の小枝などに敗北したのか理解ができなかった。
いずれにせよ、あの戦いのあと、イシャームラの行く道はもはや大群が求める方向ではなくなった。必要とされなくなった「それ」は、自らを封印して再び長い眠りに落ち、そこにスカジという意識が浮かび上がる余地が生まれた。
……
スカジは夢を見た。
その夢の中で、彼女は高潮を操り、陸地を横切って、何かを見つけ出そうとしていた。しかし彼女が旅立つ前に、その夢はひっそりと幕を閉じてしまった。
そして目が覚めれば、夢と共に記憶も消えてしまう。彼女は懸命に何かを思い出そうとするものの、頭の中には大群から伝わってくる思いやり以外何もなかった。
彼女の居場所はここではない。
スカジは、なぜ同胞に対してそんなことを思ってしまうのかが、自分でもわからなかった。同胞たちはいつも親切で、必要とあらば喜んで命さえも捧げてくれるというのに。
その行動は狂信や支配から来るものではなく、ただ平等と無私の心ゆえのものだった。
それでも、大群と共に泳ぐことと、大群から遠ざかることの間で、スカジは後者を選択した。
心の奥深くから、一種の嫌悪感が湧き出てきたのだ。たとえ死を迎えても、シーボーンの仲間にはなりたくない、と彼女は思った。
その理由については、彼女自身にもわからない。
シーボーンが自らの同胞を嫌悪することなどありえるのだろうか?
スカジには答えられなかった。
とにかく、陸へ……陸へと……
潜在意識が彼女を陸へと泳がせた。
そこには、会いたい人がいるのだ。
どうしてシーボーンが人間に会いたいなどと思うのだろうか?
スカジにはわからない。
彼女の意識はあらゆる面でシーボーンの本能と衝突しており、そのため彼女の行動には一貫性がなくなっていた。
けれどもついには海岸までたどり着き、水面へと浮上して、果てしなく広い浜辺を見渡すに至った。
ふと、フードを被った誰かの後ろ姿が視界に入る。
彼女は喜び、思わずその人の顔立ちを、その人と共に暮らした日々を思い出そうとした。そして続けてアビサルハンターのことを、エーギルのことを、そして海のことを──
記憶は潮の如く満ちて、彼女の心を打ち砕いた。

 

▼吐露
父のこと、母のこと、そして兄弟姉妹のこと。
ウルピアヌス、ローレンティーナ、グレイディーアのこと。
過去、現在、未来に至るまで……
スカジはすべてを思い出した。
彼女はすべてを失っていたのだ。
人類にはなれない怪物で、シーボーンにもなりきれない人間。
彼女は潮に身を隠したまま、美の象徴を恐る恐る眺めている。
姿を見せたいと思う反面、姿を現すのは怖かった。
たとえドクターが許してくれても、彼女は自分を決して許せない。
今できるのは、ただ遠くから眺めて心の隙間をほんの少し埋めることだけだったが、そうしているとまた、大きな罪悪感に襲われてしまう。
生きることは重荷になったというのに、死はこんなにも遠くにある。
彼女は空虚の化身となっていた。
……
スカジの喉へと、一つの歌が湧き上がってくる。
それは幾度となく口ずさんできた歌で、その音節や発声の一つ一つに至るまで、すべて完璧に仕上げられているはずだった。
けれども今聞いてみると、それはまるで地面に落ちたガラスのように感じた。
いくつもの破片に砕かれて、二度と元には戻らないのだ。
それでも彼女は歌い続ける。
歌うことだけが、彼女に残された本能なのだ。
その歌は罪をあがなえず、悲しみを和らげることもできない。
けれども彼女は涙を流して歌っていた。
心の震えが、歌声から音程を奪う。
涙が舌先に落ち、苦渋が心に流れ込む。
次第に喉は枯れてきて、歌は嗚咽でとぎれとぎれになっていく。
だが、それでもなお、彼女は歌い続けていた。
聴衆はいらない。そこまでの高望みはしない。
歌うことこそが、彼女の人生に残されたたった一つの意義ならば──
ただ歌い続けるだけだ。
……
海岸にいたドクターは、何か聴こえたような気がして振り返り、海を見た。
そこには波の音だけがあり──
そのほかには、何もなかった。