「平凡こそ幸せ」

アークナイツ統合戦略#3の5層表エンディング「平凡こそ幸せ」の碑群。

 

 

▼十字路
避難所に残った防御装置だけでは、ウルピアヌスを止めることなどできはしない。いくつかの罠を片付けて、擬態したシーボーンたちを一掃したのち、彼はキケロの研究室に立っていた。
……
数日前、ウルピアヌスは深海司教キケロの痕跡をたどっていた。この司教は力と技術においてはウルピアヌスに及ばぬものの、延命という一点においては並ならぬ心得があるようで、自らの切断された手足を囮にウルピアヌスの追跡を逃れた。それまでのウルピアヌスの習慣としては、司教の死を見届けるまでは追い続けるのが常だったが、しかし、一つの考えが彼の足を止めた。
基本的に、深海司教はイベリアの村や町の周辺に居を構えるか、あるいは布教のため民衆と共に暮らしているものだ。けれどもここは人里離れた荒れ果てた土地で、司教が襲撃を受けた際にも周辺に信徒は現れず、恐魚の一匹も見なかった。これはあまりにも不自然なことだ。
唯一考えられるのは──
心中の疑念を和らげるべく、ウルピアヌスはキケロの追跡を中断して、代わりに周囲の土地を探索し、手がかりを探すことにした。そうして数日後、キケロの避難所兼実験室を発見したのだ。
……
洞窟にある実験室は、すべてが綺麗に整頓されており、資料も手紙も分類され、乾いた本棚にきちんと収納されていた。
ウルピアヌスはキケロの研究になど興味はない。様々な角度から倫理と道徳を逸脱し、人類を冒涜する実験を幾度となく見てきたからだ。それよりも彼の関心は、キケロとほかの司教との手紙のやり取りのほうへ向けられていた。
通常であれば、深海司教がシーボーンの姿を取った時には、その研究や手紙はすべて、肉体の変貌に伴い完全に破壊されてしまうものである。
しかし今回は違っていた。キケロは明らかに、アビサルハンターの急襲など予想だにしていなかった様子だ。恐らくあの時は、自らの資料を発見されないよう、わざと逆方向に逃げたのだろう。
そこで彼は慎重を期し、やはり研究目録のほうにも一通り目を通すことにした。そして、そのまるで進展のない研究がエーギルに影響を及ぼすことはないと確認したあとに、キケロのノートと手紙へと視線を移す。
封筒の宛名には、胸中をざわつかせるような名前がいくつか記されていた。
その中にはエーギルの技術アカデミーや科学アカデミー、さらには芸術界の人々の名前までが見受けられ、一部は、数年前から深海司教と目されていた人物だ。
しかし、その多くは今なおエーギルにおいて相当の地位と影響力を持っている。並ぶ名前を見ただけで、深海教会がエーギルの社会全体に与えているダメージは予測がついた。
これは始まりにすぎないのだ。
イシャームラ討伐後に彼らが密接に交流していたこと、深海司教がアビサルハンターの生き残りを監視していること、そしてエーギルの動向などの情報が、手紙を通してウルピアヌスに突き付けられる。さらには、時が経つに連れ、イシャームラの生物としての性質が「それ」を狩ったハンターの体内に残っていることや、そのハンターの行方、さらにはほかの海神たちの動向などが、司教たちにとって憂慮すべき問題となり始めたことも見て取れた。最近の手紙の内容から見て、どうやら司教たちはある一点で同意に至っているようだ。
──彼らは、イシャームラを狩ったハンターを海へ帰らせようと企んでいる。でなければ、イシャームラが再び目覚めることはないからだ。もし、イシャームラを大いなる静謐の元凶と対面させることができれば──
キケロ個人としては、『大いなる静謐』が人類とシーボーンの融合を加速させれば、エーギルがアビサルハンターの肉体改造技術を広く普及させることにも繋がるだろうと考えているようだ。彼は人類が世代を追うごとに、シーボーンに抗うための贈り物を受け取っていくことで、彼の望むような完璧な人類が生まれると思っているらしい。ゆえに、ほかの司教たちと意見を異にするところはあれど、彼がこの計画に参加していたことは疑う余地もなかった。
手紙に記された文言は、まるで絡みつく漁網のようにアビサルハンターたちとエーギルを絞め殺そうとしている。しかし、ウルピアヌスはその陰謀の全容を最後まで解き明かすことはできなかった。というのは、それだけの時間がなかったからだ。
彼が未読の手紙へと手を伸ばそうとするやいなや、突然海水が実験室へと流れ込み、その衝撃はキケロの研究のすべてを粉砕した。そうしてそこへ現れたのは恐魚の群れだ。
それは避難所全体を埋め尽くさんばかりの勢いで泳ぎ回り、食らいついてきて、ウルピアヌスの身体の中から同胞を救わんとしていた。
ウルピアヌスは錨を振り上げる。
サルヴィエントでの事件のことはとうに、彼の耳にも入っていたが、深海教会は今もなお、彼の部下を捕らえようとしているのだろうか?
彼が内情を知る限り、彼がまだ生きている限り──
そんなことは決して許さない。

 

▼奇跡の窃取
成長、存続、繁殖、そして勢力拡大の本能は万物に備わるものであり、それぞれが環境に適応するため、進化の道を歩んでいくのは当然だ。
しかしなぜ、完全な存在となることを異常な執念で追い求め、個の生存本能すらも超越して、あたかも崇高な目的でもあるかのように己の種族を牽引する生物が存在しうるのだろうか? エーギルは私に答えをもたらしてなどくれないだろう。
私はただ、彼らの持つリソースと手段だけを求め、深海教会の門戸を叩いた。けれどどんなに勉強を重ねて名声を集め、人々から尊敬される司教になっても、得られた答えは「すべての物には神の啓示がある」などという、納得できないようなものだけだった。
そこで私は、生物学者の身に立ち返り、この大陸のあらゆる生き物を見て回った。そして一匹残らずとは言わずとも、幾千種類の生き物たちをこの目に収めてきたのだが、ついぞ答えは得られなかった。あの海中の生き物だけは、既存の理論や仮説では説明がつかないのだ。
結局私は、「神」の存在を認めざるを得なくなった。それはイシャームラのようないわゆる神でもなければ、人々が想像しているような形而上の支配者でもない。おそらく、ある種の崇高な意志が、イシャームラをはじめとする神やシーボーンたちを作り変え、さらには人類よりはるかに効率的かつ秩序立った方法を以て、「神」が定めた終点に至るまでの間、生物としての可能性を探求するよう駆り立てているのだ。
若かりし頃、私は同僚たちと共に陸で蜂のコロニーを観察し、その社会構造に驚愕したものだが、今やそれよりはるかに合理的で理想的な生物の未来が目の前に広がっているのだ。このとめどない資源の供給と循環の中では、すべての争いと憎しみがそれの根差す土壌ごと消えて失われることだろう。
「神」の正体を解き明かす必要も、その意図を推測する必要もない。私はただ「神」の実験器具を探し出し、「神」の持つオリーブの枝を盗み出して、たとえそれが人類のために用意された物でなくとも、その果実を人類へともたらしてみせる。これこそは私の、そして困難に打ち勝たんとする人類科学の研究者一人一人の権利なのだ。

 

▼枯れた声
老人は首を横に振ると、少女の手から滑り落ちた物──ある使者と交わした誓約を拾い上げ、箱の中へと入れた。
少女は数年間にわたって老人と共に方々を歩き、共に学んできたにもかかわらず、老人はまさに今この瞬間起きた出来事のために、少女が必死で求めているものを与えようとはしなかった。
悲しげな無音の叫びが砂礫を削り、不気味な模様を滲み出させていく。
彼女の存在そのものが周囲を引き裂き、草木を枯れさせ、生命力を奪っているのだ。
恐魚の生命は常に、生態系の中に組み込まれており、適切な時に必要な栄養を摂取し、またしかるべき時にそれを自然へと帰して、同胞のためにより調和のとれた生態循環を作り上げていくものだ。しかし、彼女の生命はそれができず、その相反する性質が、彼女と彼女の周囲のすべてを苦しめていた。
今はその身には彼女が切望していた力が溢れていたが、それは想像していたような美しい形ではなかった。母の血が彼女に残した綺麗な歌声さえ、大群の呼び声にかき消されてしまったのだ。
そこにあるのは苦痛だけだ。彼女の身体を引き裂かんとするその痛みが、声にならない後悔を周囲に響き渡らせる。
この苦痛は彼女の抵抗と後悔、そして不完全さに端を発するものだった。
彼女は自分を受け入れられず、かの大群の呼び声に応じて同化することもできず、それでいて両親を殺めた人類と同類であると認めることもできなかった。
絶えず失い、絶えず奪われ続けていくばかりだが……なぜ、どうして彼女なのだろう?
どうして……かの大群を、あるいは人類を生かしていくために、自らの力を捧げなければならないのだろう?
彼女はすべてを拒んだが、その永劫の如き一瞬の間に、抵抗の意志は失われてしまっていた。
砂礫に咲く一輪の美しくも空虚な花は、彷徨っては枯れ果ててゆく。